COLUMN

Women in Paris Vol.8
Sawako Ishitani(2/4)

高校時代に大きな影響を受けたアーティスト、jun suzukiさんから「君は日本にいるべきではない、世界へ出なさい。ただし、最初に大きな街に行ってしまうとそこしか見られなくなるから、まずはなるべく小さくて美しい街へ行って、そこからヨーロッパの全てを見てきなさい」との助言を受け、海外へ出ることを決意。とはいうものの、そのタイミングですでに高校を卒業してしまっていたため、当時父親が仕事の関係で住んでいた上海に1年間身を寄せながら、語学の勉強を続けたのちウィーンへ。最初の半年間ほどは現地の語学学校に通った。「先にウィーンに住んでいた知人から、王立の美術アカデミーと、オーストリア国立応用芸術大学という学校がある、と聞いていました。応用芸術大学は学科がたくさんあって、その中にファッションのコースがあったのですが、当時の教授がヘルムート・ラングだと知って。彼はその時の私にとって神のような存在だったので、絶対ここに行く!と心に決めました」。子どもの頃からファッションはすごく好きで、チラシの裏にデザイン画を描いたり、洋裁が得意な母親と一緒にハギレを使ってバッグや洋服を作っていたという石谷さん。海外のコレクションが放映されたTV番組を録画して擦り切れるほど何度も見返し、『ファッション通信』、『モード・エ・モード』などの雑誌もくまなくチェック。高校の文化祭では、友人たちと古着を持ち寄ってファッションショーを開催したという。

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3歳の時から10年間続けたバレエの発表会のスナップ。メイクをして、母親手製の衣装を着るのが大好きだった。
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高校の学園祭でファッションショーを企画した時に撮影したもの。

応用芸術大学の入試は、写真でも、縫ったものでも、立体でも、ポートフォリオがあればよく、とにかく自分はこれ!というものを持ってきて、という感じだった。石谷さんは仮想のファッションショーのために描いたデザイン画や、自分で作った洋服の写真などを持って臨んだ。面談の日、申し込み用紙に希望する教授の名前を書く欄があり、「ヘルムート・ラング」と書いたら、それを見た別の受験生に「今年からヘルムート・ラングじゃなくて、ジャン・シャルル・ドゥ・カステルバジャックという人に変わったんだけど、知ってる?」と言われて大ショック! だがすでにここまで来てしまったからには、受験しないわけにもいかず、カステルバジャックさんに作品を見せることに。すると「持ってきたデザイン画や、これまでチラシの裏に書き溜めた絵や洋服の写真を見せたら“すごく可愛い!面白い!あなたは日本人でしょう? 絶対に合格にするから”とカステルバジャックさんに言ってもらえて」。この時の彼との出会いは、結果、石谷さんの運命を大きく左右することになる。

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ウィーン留学時代、クラスメイトのショーに参加するためスロベニアへ。プロとして活躍している学生も多く、圧倒されっぱなしだった。

応用芸術大学は、良くも悪くも自由な校風で知られるところ。ファッション科では歴代、カール・ラガーフェルド、ヴィヴィアン・ウエストウッド、ラフ・シモンズなど、実に豪華な面々が教授として名を連ねる名門ではあるが、課題も少なく、石谷さんには学びが得られるという手応えがいまいち感じられなかった。通い始めて1年目にして、ここにいても時間が無駄に過ぎていくだけなのではないか、と不安な気持ちがむくむくと頭をもたげ始める。そんなある日、月に1回のペースで行われていたカステルバジャックさんの講義の時間のこと。出されていた課題をプレゼンしていた石谷さんは突然泣き出してしまった。「ホームシックもすごくて、私、もう限界にきてる、って感じだったんです。言葉も出てこなくなってしまって、そんな自分に腹が立って、隣の部屋に逃げ込んでわーっ!ってそこにあったものを投げ散らかしたり、爆発してしまったんですね。そしたらそこに、カステルバジャックさんが声をかけにきてくれて。“君にはウィーンが合っていないんじゃないかな。パリにきて僕のところで修行をしたらどう?”と」。次の月には身の回りの荷物だけをまとめて、とるものもとりあえず、バスで20時間かけてパリへ渡ることになった。

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感謝してもしきれない、カステルバジャックさんと。オフィスは大音量で最新の音楽が流れ、ストリートアーティストが出入りしていた。「スタッフよりも若いマインドの持ち主でした」