COLUMN

Women in Paris Vol.8
Sawako Ishitani(3/4)

身一つでパリへ渡り、カステルバジャックさんのアトリエで研修生として働き始めた石谷さん。そこで最初に与えられたのは、日本とのライセンス商品のソックスにあしらうクマのイラストを描く仕事だった。フランス語しか話せないフランス人のお針子さんやアトリエのチーフから、あれこれ細かい雑務を命じられても、この時点ではまだフランス語はほぼ理解ができなかったため、しょっちゅう叱られていたという。それでも、パリコレクションのためのクリエーションを担うチームの仕事ぶりを見て「なんとかっこいい仕事をしている人たちなんだろう」と大いなる刺激をもらった。「学校でやっていたこととは全然違うぞ、と。ウィーンを出てきてから1年ほどは学校の籍は残しておいたのですが、パリでの仕事が軌道に乗り始めて、ビザも取ってもらえそう、となったタイミングで除籍しました」。若さゆえの、無謀とも思える選択が、結果的には成功への道を開くきっかけとなったのだ。

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カステルバジャックでのデザイン画。この頃はまだ手描きだった。サンプルに合格点をもらえるまでイタリアの工場に居残りした思い出も。

ライセンス用の小さなイラストを描く仕事からスタートして、間もなく本格的にパリコレクションを手がけるチームに参加、ブランドのコアとなる部分のクリエーションにも深く関わり、トータルで8年間、カステルバジャックに在籍。モデルとしてランウェイを歩いたり、被写体として広告に登場するなどといった貴重な経験も得た。「私がいた90年代後半から2000年代前半は、カステルバジャックというブランドがとても“乗っていた”時代でした。私がチームに加わった頃、他にもイギリスやオランダから20代前半の若いスタッフがスタジオに集まってきて、カステルバジャックさんもここで新しい波に乗らなくては、と思ったようで。そこから彼のスタイルがガラッと変わって再ブレイクを果たしたんですよね。その全てを見ることができたのは、私にとっての大きな財産です」。カステルバジャックでのキャリアの最後には、世の中の流れも鑑みて設立された、シューズやバッグを専門とするアクセサリー部門を担った。

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カステルバジャックのショーでチームメイトと。時間ギリギリまで裏方で働き、ショーが始まるとランウェイを歩いた!
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カステルバジャックさんが描いてくれた絵と、『madame figaro』誌に掲載された記事。「私はフランス国立自然史博物館の剥製に囲まれています……」

「貴族出身のカステルバジャックさんは、スタッフの皆から慕われる王様のような人でした。人を惹きつけ、まとめる力があるし、ハートフルでしたね。だからチームはアットホームで、みんなと信頼関係で結ばれているという感じが強くありました」と話す石谷さんだが、8年勤めて、ここでできることはやり切った、という思いから転職する決意をする。ソニア・リキエルにバッグデザイナーとして採用されたのち、スワロフスキーでハンドバッグやレザーグッズ、ウォッチを担うチーフデザイナーに。「スワロフスキーは大きな会社なので、NY出張の際にはヴォーグ編集部でアナ・ウィンターを囲んでディスカッションをしたり、ニック・ナイトと共に広告撮影をしたり、卒倒しそうな(笑)案件もたくさんこなしました。外部のデザイナーを招聘して一緒にものを作るということも多くて、それのコーディネイトや予算組み、アートディレクションを一緒に見る、といった、これまでとは異なる大きなスケールでの仕事をたくさんやりましたね」。およそ2年勤めたのち、2010年にいよいよ独立して、自身のブランドを持つことになる。

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スワロフスキー時代の作品。「オフィス全体がキラキラしていました」
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「JACCO」のラインストーンにヴィンテージのバンダナを編み込んだシリーズは、パリのコレットのショーケースを飾った。