COLUMN

Women in Paris Vol.7
Momoko Honda(2/4)

渡仏する前の時点で、すでにフランス語検定2級(!)を取るほどの語学力だったという本田さん。ワーキングホリデーへ申し込む際に必要なモチベーションレターを自力でフランス語で書き、無事に申請許可がおりてフランスへ渡ることが決まったのが2007年のこと。「その時出ていた『フィガロジャポン』で偶然、パリの手芸屋さんを特集していて。掲載されていたウルトラモッドという店に履歴書とレターを送ったんですが、しばらく連絡がなくて、これは無理かな、と思っていたら、パリへ出発する直前に熊本の家に電話がかかってきて『いつくるの?』って。ウルトラモッドのオーナーからでした」

ウルトラモッドに勤め始めた初期の頃にとっていたメモ。なぜかジャムのレシピも?

パリ到着の翌日、すぐにウルトラモッドへ出向き、さっそく雇ってもらうことが決まる。「ちょうどお昼時で、スタッフはみんなワインを飲みながらランチを食べていました。このお店、日本人のお客さんがすごくたくさんくるんですが、当時は日本語を話せるスタッフが一人もいなくて、とにかくすぐに来て、って」。ワーキングホリデーで1年間勤めた後、一度日本へ帰国。お金を貯めてからビザが降りたら再度渡仏しよう、と思っていたら、すぐにビザが出た。「この時点ではまだお金が貯まっていなくて(笑)、半年間ほど日本でアルバイトをしてからパリへ戻って、再びウルトラモッドで働き始めました」。この頃のフランスは、外国人がビザを取るのがとても難しい時代。しかもウルトラモッドのオーナーは初めて外国人を雇うという状況だったが、手探りながら煩雑な手続きを一緒にこなしてくれたという。

渡仏後届いた母からの手紙
渡仏後に届いた、母親からの手紙。

パートナーのダミアンさんと出会ったのは、ワーキングホリデーでパリに滞在していた頃のことで、再びパリへ戻ったタイミングで一緒に住み始め、その後結婚。共通の友人を介して知り合ってから14年ほどが経つ。「彼の家業がなんとニット工場で、最初のデートの時、1キロほどあるでっかい糸のコーンを持ってきたんですよ。私が編み物をするって話していたから、うちの工場には毛糸がいっぱいあるよ、なんて言って(笑)」。ダミアンさんはこの頃、父親とともに工場経営に携わっていたが、その後ファストファッションの煽りを受けるなどして、工場は2014年に閉鎖。父親はそのタイミングでリタイアした。「ちょうど私はウルトラモッドで働き始めて8年が経った頃で、そろそろ違うことを始めてみようかな、と思っていたタイミングでした。かねてから興味を持っていたリンキング縫製(ニット専用の縫製技術)を学ぼうと、新潟県の五泉市にある会社で研修させてもらうことにして、休みをとって2週間くらい新潟へ行ったんです。その直後、ノルマンディにあるセントジェームスがリンカーとプログラマーを探している、ということで、夫婦で就職することが決まりました」

新潟・五泉市の研修最終日
新潟県五泉市での研修最終日にスタッフと撮ったスナップ。