COLUMN

Women in Paris Vol.7
Momoko Honda(1/4)

東京生まれ、熊本育ち、現在はパリで「ニットのスペシャリスト」として、パートナーのダミアンさんと共に「semoda knitwear」を営む本田もも子さん。中学生の頃より海外で生活したいと考え、その夢を叶えるために重ねてきた地道な努力と、ニットへの熱い愛を語ってもらった。

「父が看板を作る職人で、家には色見本や世界中の看板見本、ペンキや筆なんかがたくさんありました。すごく手先が器用で凝り性で、趣味のための釣り竿を自分で作ってしまうような人で、私が子供の頃にビーズでアクセサリーを作ろうとしたら、必ず父が手伝ってくれていましたね」。父親の後を常について回っている子供だったいう本田さんは、職人気質で天邪鬼な父親からは大いなる影響を受けているという。編み物に最初に触れたのは10歳の頃、母親が使っていた針や毛糸を使って、一緒にしまってあった教本を見ながら編み方を覚えた。5つ離れた兄がいたが、高校から寮へ入ってしまって、実質一人っ子のように育った本田さんは、一人でいるのが好きな子供で、編み物にもあっという間にのめり込んだ。高校に進学してからは編み物教室に通い始めて、そこでは製図の仕方なども基礎から学び、親戚や身近な人から糸代だけを出してもらってオーダーを受けて編むほどの腕前になっていた。

いつも父と一緒に
お父さんっ子だった本田さん。父親の膝に乗っているのは5歳上の兄。
看板職人だった父親。

中学生の頃から海外で生活したいと思うようになったのは「あまり日本の社会に自分がなじめていないな、というか、考え方が窮屈だなって。他の人と違うことがしたいという気持ちが小さい頃からあったし、海外に行った方が自分にとってはチャンスが巡ってくる可能性が高いと感じていました。将来、日本にずっといる自分が想像できなかったんですよね」。高校生になったばかりの頃にはロンドンへ行こう、と英語に力を入れていたが、その後編み物にのめり込んでからモード誌を読むようになって「やっぱりファッションならパリだ!」と思い立ち、フランス語を習い始めた。「熊本の田舎だったので、フランス語を学んでいる人も話せる人もいなかったですし、やはりここでも他の人とは同じことをやりたくない、という気持ちも働きました」

高校生の頃、教科書の下に隠してこっそり授業中にも読んでいた。
縫製工場での修行時代に上司から譲り受けた大切な本。

編み物だけでは物足りない、もっと違う技術も身につけたい、と考えた本田さんは、自宅の裏にある小さな縫製工場でアルバイトを始める。高校を卒業する少し前、学校終わりに工場を訪ねたら「じゃあ放課後にきて」と話がまとまったのだという。生産用のパターンを見て、工業用のミシンを生まれて初めて踏んだ。高校卒業後、そのままここに就職し、その後別の縫製会社へ転職。3つの会社を渡り歩いて、洋服作りに関する多くの技術を身につけた。「当初はフランスへ行って、クチュールメゾンで働きたいと思っていたんですが、そういうところに就職するにはファッションスクールを出ていないと難しい。なので日本で働きながらお金を貯めてから、学校へ行こうとしたのですが、思った以上にかなりの額のお金が必要なことが分かって。それなら、実際に働きながら技術を学んで身につけて、とにかくやれることをやってからパリへ行ってみようと、考え方を変えたんです」。最後の縫製会社で働いた後、「洋服がどういう風に売れていくのかも知っておきたくて」販売の仕事に就く。もう最後のチャンスだとばかりに、ワーキングホリデーを申請したのがこの24歳の時だった。


the first photo by @Lara Ayvazoglu