2022.8.26 Women in Paris Vol.3Chikako Taura(1/3) 昨年、パリに自身の店「CHIKAKO」をオープンさせた田浦千花子さん。今や名だたるファッションメゾンからも引っ張りだこ、大人気フローリストの彼女の原点は、学生時代、花屋でのアルバイトを機に、花を介してのお客さんとのコミュニケーションの楽しさに目覚めたことだった。その後のパリへの道のりから現在の活躍ぶりまで、華麗なる遍歴を辿ります。 パリ2区。田浦千花子さんが昨年オープンさせた「CHIKAKO」は、元々靴下屋だったスペースをリノベーション。白い天井はそのまま生かし、壁は彼女が大好きだという朱赤に塗られている。「母は美術関係の仕事をしていて、いつもモノトーンの服を着ている人でした。わたしは子どもの頃、ピンク色を着せてもらえなくて、その時は悲しかった。おばあちゃんがくれたピンク色のセーター、母親が返しに行って、グレーになって戻ってくる(笑)。だけど気づいたら自分も黒とか赤とか、そういう色が好きになっていました。今さらパステルカラーには行かないですね(笑)」。東京の目黒に生まれた都会っ子。海も山も苦手で、自然への憧れはまったくなし。アーティスティックな家庭環境で育ち、なんとなく“そういう”世界が好きな子どもだった。「小さい頃から絵を描いたり、何かをデザインしたり、あるいはそういうものを見るのも好きでした。両親はわたしが興味を持った物事を否定することは一切なく、ちょっと絵を描いたら褒めてくれる。学校でも音楽や美術の授業は楽しかったし、学園祭の冊子で描いたイラストを使ってもらえたらうれしかった。自分が作ったもの、発信したものに反応が返ってくることの面白さは、今の仕事をすることになった原点で、モチベーションでもありますね」 45歳にしてバルセロナへ移住した人生の頼れる先輩、叔母とともに。バルセロナは何度も訪れている大好きな場所でもある。 『ベニスに死す』を観て以来、憧れていたベニスへ。映画の舞台となったホテルを訪れて感慨に浸った。 中学では吹奏楽部でフルートを担当し、部長を務めるほど没頭。その反動で高校では「帰宅部」に所属し、推薦入学で女子美術大学へ。デザイン科で環境設計を専攻する。「空間デザイン、造園、家具のことなども学びました。就職はそういう方向かなと思いつつ、卒業する少し前に渋谷のお花屋さんで始めたアルバイトが楽しくて迷っていたら、植物寄りの空間ディスプレイを専門にしている会社が見つかったのでそこに就職したんです」。造花を使った大きな施設のデコレーションを手掛ける会社で、かなり忙しかったが仕事は楽しく充実した日々。やがて30代が視野に入り始めた頃、やはり生花の仕事をしたいという思いが強くなって、六本木グランドハイアット内にある「UI フローリスト」に転職する。「ウェディングや館内の装飾を中心にやっているモダンなフローリストで、学生の時のアルバイトしか経験がなかったのに最初からバンバン仕事をさせてくれました。下働きから始めるんだろうな、と覚悟して行ったのですが、懐が深い人たちでありがたかったです。そこで2年ほど経った時にワーキングホリデーのシステムを知って、1年間パリへ行くことにしました。最初の就職先でも、この花屋でも、今では考えられないくらいよく働いたので、一旦リセットしたい気持ちもありましたね」 ステファン・シャペルに送った、真っ赤なカバーのブック。 ステファン・シャペルでスタージュしていた頃のスナップ。 当時は「ジェーン・パッカー」など、海外の有名なフローリストが日本で店を開き、花の専門誌もたくさん刊行されていた。「何かの雑誌で見たステファン・シャペルのお店の雰囲気がすごく素敵で。日本からワーキングホリデーで行くための申請をしているときに、今までやった仕事をファイルしたブックと手紙をステファンのところに送ったんですよ。そしたら申し訳ないけど雇えない、って返事が来て。断られたけれど、わざわざフランス語の手書きの手紙が届いた! ということに感動しました」。準備が整ってパリへ渡ったのが10月、クリスマスに向けて忙しくなる時期だった。一度断られたステファンの店に直接行ってみたらブックのことを覚えていてくれて(大好きな真っ赤なファイルだったから目立ったのかも)、人手が必要なタイミングだったこともあってスタージュ(フランスの学生の研修制度)として雇ってもらえることに。「ステファンは自分の庭を持っていて、そこから切ってきた野生的な花を置いていたり、いい顧客がついているからそこへ連れて行ってもらったり、毎日がとても新鮮でした。フランス語はできなかったけれど、見本を見れば同じものを作れるし、こういう感じ、って言われているのはなんとなく分かる。ステファンのところは結構厳しいって聞いていたんですけど、いろいろやらせてもらって楽しかったですね」。スタージュ制度では、同じところで研修できるのは最長6ヶ月までという決まりがあり、ステファンのところに6ヶ月いた後、2、3軒違う花屋に。最後にいた店の店長が田浦さんのことを気に入り、働き続けたらいい、と言われる。とにかく一旦帰国、1年ほどかかってようやくビザがおり、再びパリへ。「でも、戻ったらその店長が辞めてしまっていたんです」