COLUMN

Women in Paris Vol.13
Mari Shimmura(2/4)

幼い頃から漠然とあった海外への志向と、アメリカでのホームステイに大きな影響を受け、中学卒業後はアメリカへ行きたい、と両親に相談した新村さん。「それまであまり親からはああしなさい、こうしなさい、と言われたことがなかったのですが、高校卒業までは地元にいて欲しい、と。いわば初めての母親からのお願いだったので地元の高校を卒業して、その後東京の大学に進学しました」。大学では経営学を専攻しながら写真部に所属。4つ年上の姉が働くようになってプレゼントしてくれたカメラを使い、夏休みなどの時間が取れる時には旅に出て、知的好奇心を満たしながら写真を撮っていた。

 

「周りが就職活動を始めた頃、自分は普通に企業に就職っていうのは合わないだろうなあ、どうしよう、でもとにかく何かやらなきゃ、と思って、まずは卒業したらすぐ、ワーキングホリデーでシドニーへ行くことにしたんです」。卒業式の4日後には旅立ち、現地の写真館のお手伝いをしたり、観光客とバスで一緒に移動しながらコアラとの記念写真を撮影したり。「おそらく時給500円とか600円とか、そんな感じだったと思うんですけど、一応仕事として写真に携わることができるようになったんです。お金はなかったので、お寿司屋さんのアルバイトとか、できることはなんでもやりました。今、フランスで生活をしていて、差別されることってあまりないのですが、オーストラリアではアジア人差別を感じることがあって、世界にはそういうことがある、ってことを身をもって知ることができました。そういうことも含めて、楽しかったですね」

 

1年間のワーキングホリデーを終えて、再び日本へ。オーストラリアでの生活は楽しかったけれど、そのまま住み続けようとは思えず、写真で身を立てていくべく、まずは東京でアシスタントに就こうと考え、帰国することに決めた。どんなジャンルの写真が撮りたいか、まだ自分の中でも定まっておらず、アシスタントのエージェントに所属し、日々、依頼に応じて現場での仕事をこなす生活をおよそ3年間続けた。「当時は理不尽な暴力を受けることもしょっちゅうありました。理不尽なことを真に受けてしまったら残れないんだな、ファーストアシスタントに上り詰めていく人たちは全然そういうのを気にしていなくて、それよりも売れたいとか成功したいとか、全然心がブレないんですよ。自分はブレブレで、うまくできないなって感じていました」。そんな理不尽から逃れるために、オーストラリアからの帰国の際に立ち寄って魅せられたインドにたびたび出かけていたという。

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チベットでのスナップ。東京でのアシスタント時代には時折インドやチベットに逃亡して好きに写真を撮った。