COLUMN

Women in Paris Vol.10
Kaori Ai(2/4)

美容学校は2年間、最初の1年で実技や学科の授業を受け、次の1年でインターンを経験する。その後、東京・青山にあったサロンに就職。「確か3人ヘアスタイリストがいて、アシスタントが1人かふたり。私はもちろん一番下の見習いとして入りました。そこには結局1年くらいしかいませんでした。すごく楽しかったけど、体力的にはきつかったですね」。当時は、独り立ちできるようになるまで何年もかかるのが当たり前で、サロンの先輩たちは仕事ができる人たちばかり、いわゆる「上が詰まっている」状態。入社して1年経ってもまだ一番下っ端のままで、当然自分のお客さんを持てるようになるなどという状況ではなかった。「お店の営業が終わった後に練習して、終電がなくなってそのまま泊まったりしていました。当時、ズッカのTシャツがお気に入りだったんですけど、家に帰れないからずっと着ていたら“かおりちゃん、それユニフォーム?”って(笑)。あとは、自分もいけないんですけど、若かったし遊びたかったのもあって、仕事の後しょっちゅうクラブに行っていて。朝まで遊んでそのまままた仕事に行ったりしていたんですよね」。カリスマと呼ばれる美容師が登場する少し前、美容業界が盛り上がりつつあって、有名なクラブでは美容師ナイトなどと言われるイベントも頻繁に開催されていた。そんな勢いのある時代のムードを楽しんでもいたという。

黄色いオブジェはbunkamuraを設計した建築家を父に持つVictoria Wilmotteから、その隣の絵はアーティストのClementine du Pontaviceから贈られた。

その後、友人の紹介で代官山にあった別のサロンへ転職。2年ほど働いたのち、海外を目指すこととなる。「幼馴染の友達がワーキングホリデーでカナダへ行っていたんです。その子はみんなの中でも恥ずかしがり屋で口下手だったのですが、“カナダ、最高だったよ!”と。おー、最高かー、と。そこで海外に興味を持ちました」。だけど自分はカナダではないし、オーストラリアも違う。調べた結果、ちょうどフランスでのワーキングホリデーの制度ができたばかりのタイミングだった。フランスへは旅行をしたこともあり、いいイメージを持っていたということで、フランス行きを決める。「本当はもう少し早く行きたかったのですが、家族や当時のボーイフレンドに反対されて、一回断念して、でもやっぱり諦めきれなくて。代官山のサロンを辞めてから2年ほどたって、行けることになりました。時間をかけて周りを説得して、結果的にはそれでよかったんじゃないかと、今は思っています」

セーヌ川沿いの道が遊歩道になり、今ではパリジャンの憩いの場。週末には子どもと散歩に出かける。

ほぼ知り合いもいなければつてもない状態だったが、コルマールという地方都市で語学学校を経営している日本人を紹介してもらい、まずはフランス語を学んだ方がいい、というアドバイスのもと、学校へ行くことに。「その方がとても親切で、学校への登録もやってくれたのですが、行ってみたらパリじゃなくてブザンソンという田舎町の学校でした。そこにはクラブが二つしかなくて(笑)、おかげさまで集中して勉強できました。だけど3ヶ月間ハサミを握らずにいると仕事が恋しくなって、覚えたてのフランス語を駆使して、下宿先の近所の美容院のおばさんにお願いして手伝わせてもらっていたりしましたね」。3ヶ月間の語学学校生活を経て、ついにパリへ。まずは日本食レストランでのアルバイト生活、そこで知り合った人からの紹介で、「massato」での職を得ることとなる。