COLUMN

[ NEW ] Women in Paris Vol.15
Hitomi Takeuchi(1/3)

カリグラフィ作家であり、サン・ルイ島にほど近いルイ・フィリップ通りにある「メロディ グラフィック」をイタリア人の夫とともに経営する竹内仁海さん。ゆったりとした語り口調からは想像もつかない、情熱的なまでの行動力によって、引く手あまたの人気カリグラファーとなったパリでの暮らしとは。

 

新潟で生まれ、福井で育った竹内さんは、行政書士の会社を営む父親と母親のもと、二人の弟がいる3人姉弟の長女として育った。とてもおとなしく、上の弟と喧嘩をしてもよく泣いている子どもだったという。「小さい頃から手先が器用だと言われて、絵を描くのは好きでしたし、習字も習っていました。お友達から漫画のキャラクターなんかをノートに描いて、と頼まれたり、中学生の時にはラブレターの代筆もしていました」。漠然と、手先の器用さを生かして、人に喜んでもらえるようなことを生業にするのがいいかな、とは思っていたものの、この頃はまだ、はっきりと将来を決めていたわけではなかったという。

 

高校を卒業したら美大へ進学しようと考えたが、2年間は予備校に通わなければ合格するのが難しい、と知り、京都の大学にて日本文化を専攻。卒業後は福井へ戻って父親の会社で働いた。その頃、東京の多摩市で市議会議員をしている叔父から選挙の手伝いを頼まれ、選挙が終わった後、「事務所として使っていた場所が空いてしまうから、住んでもいいよ」と言われて上京することに。「上京してからは、アートスクールで油絵を描いていました。そこは油絵の他にも水彩画、デッサンなど、それぞれに先生がいらっしゃって、自分のペースで、週に1回でも毎日通ってもよかったんです。その自由さが心地よくて、5年間くらい通ったんじゃないでしょうか。書道のコースもあったので、ここで師範も取りました」。やがて、竹内さんの絵を見た人から描いてほしい、という依頼が多く舞い込むようになり、自身の絵を売るための会社を設立。それから2年ほど経って、東日本大震災が起こる。

まだ日本にいた時に描いた模写。好きな画家、ブーシェやフラゴナールの作品をよ く模写していた。

「震災の少し前に、短大時代の親友がくも膜下出血で急に亡くなったんですね。それで人生を考えたというか、自分がしたいことをちゃんとやろう、という気持ちが強くなりました。パリに住んでみたい気持ちは以前からあったので、少しだけ住んでみようかなと思ったのですが、そうやって考え出した後の行動は早くて、数ヶ月後にはパリへ渡っていましたね」。1年間の学生ビザでパリへ、そのあとはビザを延長して、在住は現在14年目になる。

パリへ移住する前のスナップ。